昨日、将棋ファンの間で話題の本、て聞いて「シリコンバレーから将棋を観る」という本を読んでみました。著者ははてなダイアリーを作ったIT関係のエライ人らしい。すごくかいつまむと本の趣旨は「指さない将棋ファン」ってあってもいいよねーってことで、観賞する、芸術としての将棋の魅力を伝えようという、熱のこもった一冊。俺も指すよりも観るほうが面白いと思うタイプなので、共感しながら読めました。
中でも面白かったのは羽生のインタビュー記事。「羽生さんは対局者が悪手を指すとがっかりした表情をするというのは本当ですか?」という質問に、がっかりという言葉の否定性をいなしつつも「いいラリーが続いてほしい気持ちはありますね。もっとすごいものができたのに、というか」と答えている。
お互い先が見えずリスクのある手を選びながらもギリギリの均衡が崩れないで終盤に入っていきたい、という、勝負のどろどろした欲と芸術家の美意識を矛盾せず同居させようとしている。で、その志を達成させるためには自分の手の内をオープンにする必要があった。という歴史的な流れがまた興味深い。新手は誰かが抱え込んでいる間には新手ではなく、対局(対話)によって差し出されることで初めて新手と認められ、認められた瞬間にはもうみんなのものになっている。まるで科学的な、言語そのもののような成熟過程と、それを超える連続性がもたらす個性や感性とのせめぎあい。それはたぶん、どこのシーンにも共通することだけど、最も純粋にそれと向き合わざるを得ないのが棋士という職業なのかもしれないなと思いました。
と大層な話をしたあとにアレだけど、最近の一局。
6級〜4級へ、わりとすぐに昇級してまた停滞気味の最近。3級が道場初段程度の実力ということらしいので、そこに近づければいいかなぁと。
中でも面白かったのは羽生のインタビュー記事。「羽生さんは対局者が悪手を指すとがっかりした表情をするというのは本当ですか?」という質問に、がっかりという言葉の否定性をいなしつつも「いいラリーが続いてほしい気持ちはありますね。もっとすごいものができたのに、というか」と答えている。
お互い先が見えずリスクのある手を選びながらもギリギリの均衡が崩れないで終盤に入っていきたい、という、勝負のどろどろした欲と芸術家の美意識を矛盾せず同居させようとしている。で、その志を達成させるためには自分の手の内をオープンにする必要があった。という歴史的な流れがまた興味深い。新手は誰かが抱え込んでいる間には新手ではなく、対局(対話)によって差し出されることで初めて新手と認められ、認められた瞬間にはもうみんなのものになっている。まるで科学的な、言語そのもののような成熟過程と、それを超える連続性がもたらす個性や感性とのせめぎあい。それはたぶん、どこのシーンにも共通することだけど、最も純粋にそれと向き合わざるを得ないのが棋士という職業なのかもしれないなと思いました。
と大層な話をしたあとにアレだけど、最近の一局。
6級〜4級へ、わりとすぐに昇級してまた停滞気味の最近。3級が道場初段程度の実力ということらしいので、そこに近づければいいかなぁと。